2月2日

母が亡くなりました。

この日記を書く前に自分のHPを見ました。
私のHPの端々に母の思い出が溢れていて涙が止まらなくなったけれど
私は、HPに日記を書いて来て本当に良かった。
残しておかなければ忘れているだろう思い出も鮮明に蘇って来ます。

母も私のHPが大好きで私の家に来るたびに見ていました。

母の葬儀の様子を書く事は、迷いもあったけれど
小さくリンクしておくので
もし偶然このページにたどり着いた方は、一緒に冥福を祈って頂ければと思います。

2月1日
救急車で運ばれた母。
でも処置が終わり自宅に帰って良いと言う事だったけれど
12月後半ぐらいからは、立つこともままならない状態で一月の診察にも
来ることが出来ず妹が母の代わりに1人で病院に行って先生と話すと言う状態だったので
病院に来られたのを機に入院してでも主治医の先生に見て頂きたいと言う思いが強く
嫌がる母を無理に置いて帰ることになりました。

そして朝5時から母の迎えに来てメール。。。

午後には、行くから

午後じゃわからないちゃんとした時間を教えて

3時頃かな

2時半にして。

2時半に行くね。


なんでこの時朝から行かなかったんだろう。
この時行ってさえいればこんなに今も自分を責める事もなかったのに。。。。


12時に妹から電話で母の様態が悪いと言うので急いで病院に向かい
処置室に入ると落ち着いて来たとの事で別室に通され先生とお話をし
次に予約してあったソーシャルワーカーさんと話しをしている最中に
急変と言うことでまた処置室に呼ばれた。

揺さぶって揺さぶって叫んで

看護婦さんにもうお母さんを楽にしてあげて。。。と言われるまで。。。

処置室から病室に移るまで安定するまで
先生やソーシャルワーカーさんの話しを後にしてもらって母と居れば良かった。

なんて馬鹿な事を取り返しの付かない事をしてしまったんだろう。

ごめんねお母さん。
本当にごめん。



母の希望通りお花が一杯の祭壇で送り出しました。



  


母の20代の頃の写真も写し出してもらいました。

お母さんは、綺麗で子供の頃から授業参観などは、内心何時も誇らしく思っていました。

葬儀を出せたのが6,7日だったので
その間だは、妹の家に泊まり母の傍で写真を撰んだり
思い出話をしたり。。。


妹がお母さんって凄いよね。って
なんにも言わないで子供を見守るよね。って
どんなに子供が窮地に立つっていても口を出さず見守る。

私は、子供の頃この母に対してそれが愛情の薄さかとも感じた時があったけれど。。。

そんなことは、ないよね

お母さんは、どんなに私達が長く話しても話しの腰を折りもせず
聞いてくれた。
母とは、成人してからは、友達の様に買い物に出かける事も多かったけれど
いっさい早くしなさい。もう帰ろうと言われた事がなかったなぁ。

私は、子供と一緒に買い物に出かけてもすぐに
早く、早く、もうーママ疲れたぁ帰りたいってすぐ言うのに。

お母さんは、そんな事一切なかったよね。

お母さんは、私達と居られるだけで嬉しかったのかもね。

孫達にも並々ならぬ愛を注いでくれたよね。

子供頃の私達に対する接し方とは、比べものにならないくらい
愛情を表しながら可愛い、可愛いと可愛いがってくれたよね。

ありがとう、本当にありがとう。

お母さんに娘の成人式の着物姿を見せてあげられて良かったよ。

あの日も本当は、
私は、用事を入れていて
妹が仕事を午前中だけにしてくれていて
でも私も母が良い状態では、なかったので私は、用事を取りやめて。。。

介護は、何時もふたりが休みがかち合わない様に調節していたので
ふたりが揃ってあの場所にあの時間に居られ事が奇跡で
お母さんの思いがそうさせたのかなぁって思うよ。



お母さん
ごめんね
そして愛をありがとう。
お母さんに返せなかった事は、
子供達に返して行くよ。
良い母親になるよ。
お母さんの様な立派な母には、なれないけれどね。


 








  











 









   







  
 



2010




2011
お正月



  



お母さんの指輪は、私が貰ったよ




大好きだよ

愛してるよ

言葉に出して言ってあげればよかったね。。。


私がおばあちゃんになったらまた天国で会おうね。

それまで一生懸命生きるよ。

子供達と色んな所に出かけたり、今まで通り習い事もして
ステップアップ出来る様に頑張るよ。

お母さんに頑張ったねと褒めてもらえる様に

天国で会った時に沢山の土産話が出来る様に。。

それまでみどりおばあちゃんと一緒にまっていてね。

お母さんの横で眠る日が来るまで頑張るから。。。。

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